June 2009

June 29, 2009

人間の絆

人間の絆
人間の絆 上巻 (新潮文庫)
人間の絆 下巻 (新潮文庫)

キーワード:
 サマセット・モーム、教養小説、人生、絨毯、芸術品
イギリスの小説家、サマセット・モームの教養小説。以下のようなあらすじとなっている。まずは上巻から。
幼くして両親を失い、牧師である叔父に育てられたフィリップは、不自由な足のために、常に劣等感にさいなまれて育つ。いつか信仰心も失い、聖職者への道を棄てた彼は、芸術に魅了され、絵を学びにパリに渡る。しかし、若き芸術家仲間との交流の中で、己の才能の限界を知った時、彼の自信は再び崩れ去り、やむなくイギリスに戻り、医学を志すことに。誠実な魂の遍歴を描く自伝的長編。
(上巻のカバーの裏から抜粋)
次は下巻から。
医学を志すフィリップの前に現れた美しくも傲慢な女ミルドレッド。冷たい仕打ちにあいながらも、彼の魂はいつか彼女の虜となっていく。ミルドレッドは別な男に気を移し、彼のもとを去って行くが、男に捨てられて戻ってきた彼女を、フィリップは拒絶することができない。折からの戦争に、株の投機で全財産を失い、食べるものにも事欠くことに……。モーム文学を代表する大長編小説。
(下巻のカバーの裏から抜粋)
読み始めてから大体2ヶ月間、僕は主人公を通して19世紀末のイギリス、フランスの世界を体感していた。主人公の名は、「フィリップ・ケアリ」。生まれつき足に障害があり、ナイーブでお人よしな青年だ。その青年の9歳から30歳までの人生が濃厚に示されていた。

この作品で500冊目の書評となる。僕がこの作品を500冊目に選んだのには、きっと大きな意味を持つことだろう。それほどに、僕に与えた影響は大きい。たぶん、この書評ブログ以前の読書遍歴を含めても、間違いなく5本の指に入る本になるだろう。そう、この本は、僕の人生を変える本だと言っても過言ではない。なぜならば、この長大な教養小説のテーマは、以下のようなものだからだ。

人生に意味はあるか?

そして以下の部分を引用しておこう。
フィリップは迷った、そして自問した、もしこの道徳律が役に立たぬとすれば、いったいどんな道徳律が人生にはあるのだ、そしてまた、なぜ人は特に行動を選んでするのだろうかと。要するに、みんなそれぞれの感情にしたがって、行動しているにすぎないのだ。だが、そうなればまた感情には、それがよい場合もあれば、悪い場合もある。してみると、人生勝利に終わるのも、敗北に終わるのも、要するに運次第という風にも思える。人生とは、いよいよ錯雑した混沌のように思え出した。人々は、なにかわからない力に駆り立てられ、ただ右往左往しているだけなのだ。その目的にいたっては、誰一人わかっているものはいないのだ。ただあくせくするために、あくせくしているにすぎないらしい。
(下巻 pp.250-251)
1,300ページにもわたる作品を要約するのは無理がある。そのため、大まかにこの物語の流れを箇条書きで示しておくことにする。
  1. 9歳ごろ、母親の死別から牧師である叔父に引き取られ、教会での生活が始まる
  2. 13歳から18歳までは神学校生活を送る
  3. 18歳から19歳まではドイツまで語学留学にわたり、書物や思想について語り合えるヘイウォードと出会う
  4. 20歳近くのとき、故郷イギリスで年上のミス・ウィルキンソンとの恋があり、ロンドンの計理事務所で仕事をする
  5. 計理の仕事が向いてないと悟り、パリへ絵の勉強へ
  6. 2年間、パリで画家志望の生活を送る。そこで人生を絨毯に例える詩人クロンショーや芸術仲間のローソンなどと出会う
  7. 芸術の世界でも1流にはなれないと悟り、ロンドンに戻り、医学校に入学
  8. 容姿は良いが、フィリップのことなどまるで愛していない賤しい心の女、ミルドレッドとの愛憎的関係が始まる
  9. ミルドレッドに捨てられ自殺を考えていたが、小説家ノラと出会い、ノラに惹かれていくフィリップ
  10. 別の男の子供を身ごもったミルドレッドとの再会、そして医者友達、グリフィスとミルドレッドの色恋沙汰
  11. フィリップの患者で、子沢山のアセルニー一家と出会う
  12. 何週間も会っていなかったミルドレッドとの再会後、愛情を抱くことなく同居をするが、そのことにミルドレッドは愛想を尽かし、フィリップの元を去る
  13. 医学校に通っているので、働く口のないフィリップは株に手を出していたが、戦争の影響もあり、株が紙くずになり、食うのにも困るほどに
  14. 野宿をするような生活になり、一時は再度自殺を考えるが、元患者のアセルニー一家の助けで麻問屋の案内係に職を得る
  15. かつての芸術仲間であるローソンと再会し、ドイツで知り合い、議論を交わした旧友ヘイウォードの死を知らされ、人生についての答えを見出す
  16. 医学校は一時中断していたが、叔父が死ねば遺産が入り、医学生生活を再開できると思い、叔父の死を待望する
  17. やがて叔父が死に、遺産が入り、なんとか医学生生活を再開する
  18. 医者になるために産婦人科の実習で貧困層の出産を多く担当していく
  19. 医学校の入学から7年近くかかかって医者になり、30近くになっていたフィリップは、最初の赴任地で漁村に行き、気難しい医者の助手になる
  20. その漁村での赴任が終わり、イギリスのアセルニー一家のところへ戻り、その一家の美しい娘サリーと結婚へと至る
これが大まかな流れとなる。多くの人と出会い、それぞれの人から色々なことを教わったり議論を交わしたりし、そして死などの別れを経験していく。フィリップ・ケアリという1人の男の9歳から30歳までの成長物語で、典型的なビルドゥングスロマン(教養小説 - Wikipedia)でもある。

フィリップ自身は、いつでもとても幸福な状況とはいえない。医者である父はすでに他界しており、母も亡くなり、フィリップのことなど全く愛していない叔父の元に引き取られる。神学校生活では、足の悪いことを常にからかわれ、嘲笑の的になる。

パリで芸術家を志すが、誰にも絵を評価されず、自分自身、才能のないことに気づく。そこから医者を志望して、医学生になり、町のカフェで出会ったミルドレッドにだんだん惹かれていくが、ミルドレッドに常に振り回され、お金も失っていき、どん底に陥っていく。そんなフィリップの人生を追体験していくと、『人生の意味とは何だ?』と叫びたくもなる。

なぜこの本が僕の人生を変える一冊であるのか?それは、以前からずっと自分自身の人生について自問自答を繰り返してきた経緯があり、この本で以下のことを確認できたからだ。

人生に意味などあるものか。(下巻 pp.481)

以下、この作品で強烈に印象に残った部分、強く影響を受けた部分を引用していく。

フィリップが23歳のとき、ロンドンで小説家ノラと恋仲になりつつあるとき、18歳からの旧友ヘイウォードからなぜ本を読むのか?と問われたことに対する答え。
「一つには、楽しみのため、つまり一つの習慣だから。煙草と同じことだよ、読まないと、気持ちがわるい。だが、もう一つは、自分を知るためでもある。僕は、本を読む時、ただ自分の眼だけで、読んでるようだな。だが、時々、いいか、僕にとって、ある意味をもったような一節、いや、おそらくは、ほんの一句だろうね、それにぶっつかる。これは、いわば僕の血肉になるのだ。僕は、書物の中から、僕の役に立つものだけを、抜き取る。だから、幾度読んだところで、それ以上は、なんにも出て来はしないのだ。ねえ、君、僕には、こんな風に思えるんだが、つまり、人間ってものは、閉じた蕾みたいなものなんだねえ。読んだり、したりすることで、それがどうなる、というようなことは、全然ない。ただ時に、その人にとって、ある特別な意味をもっているようなものがある。それが、花弁を開かせるのだ。一つずつ、花弁が開いてゆく、そして、ついに花が咲くのだ。」
(下巻 pp.34-35)
僕の読書感ととても似ていると思った。そもそも僕が読書をしている根本的な意義は、成功者になるためでもなく、金持ちになるためだけでもなく、自分の知識をひけらかすためでもなく、教養のためだけでもない。全ては『自分を知るため』である。だから、読んで行動しなければ意味がないと警告する、自己啓発書的な本やそのように人から言われることにいつも違和感を覚えていた。もちろんその通りで特に異論はないが、多分僕が求めるものはそういうタイプの本ではない。本書のように、自分の中の花弁が自然と開くようなタイプの本、それこそが僕が本当に求めているものなのだと分かった。200,300冊程度読んだだけでは、その結論にはなかなか至れないと思った。500冊でも、その結論に至るまで、実は足りないと思う。

この本のテーマである、人生の意義についてのフィリップの結論がある。長いが、ここを引用しておかないと、この本を取り上げたことにならない。ネタバレが嫌な人や、自分の人生の一つの答えを知るのが嫌な人は、読まないように。
 いったい人生とは、なんのためにあるのだ?フィリップは、絶望にも似た気持ちで、自問してみた。全く空しい、夢のような気がする。クロンショーにしても、そうだった。彼が生きたということなど、全く無意味だった。今では、死んで、忘れられ、その詩集は、残本になって、古本屋に出ていたことがある。彼の一生のごときは、ただあの厚かましいジャーナリストに、一片の書評を書かせるためにだけ、あったようにさえ思える。フィリップは、密かに、心の中に叫んだ。
「ああ、いったいなんのためなのだ?」
 努力に比して、なんという、それは、あわれな結果なのだ。青春の美しい希望の数々に酬いられるものは、ただかくも苦い幻滅、それだけなのだ。それにしても、苦痛と病いと不幸の重錘が、あまりにも重すぎる。いったい、どういうことなのだ?フィリップは、彼自身の一生を振り返ってみた。人生へ乗り出した頃の輝かしい希望、彼の肉体が強いたさまざまの制限、友達のいない孤独、彼の青春を包んだ愛情の枯渇。彼にしてみれば、いつも常に、ただ最上と思えることだけをして来たつもりだ。しかも、このみじめな失敗振りは、どうだ!彼と同じように、一向取柄もなさそうな人間で、立派に成功しているのもあれば、彼よりは、はるかに有利な条件をそろえていて、それでいて失敗した人間もいる。すべては、全くの運(チャンス)らしい。雨は、正しい人間にも、悪い人間にも、一様に降る。人生一切のこと、なぜだの、何故にだのという、そんなものは、一切ないのだ。
(下巻 pp.480-481)
あぁ、何度フィリップと同じことを考えたことか!!ずっと無限ループしていた。うすうす僕も自分の人生の無意味さに気づいていた。そして、フィリップは、以下のように結論付ける。
答えは、あまりにも明白だった。人生に意味などあるものか。
(下巻 pp.481)
このように答えを見出しつつも、フィリップは絶望に陥っていない。そこが重要なポイントになる。

かつて、フィリップは、フランスで画家を志していたときに出会った、仲間たちの間でも発言力のある、酒好きの詩人、クロンショーから、人生の意味をペルシャ絨毯に例えられ、その切れ端をもらっていた。かなり長いが、その絨毯の答えの部分を以下に抜粋。
 というのは、彼に、まるで数学の証明にも劣らない力をもって、人生無意味の真理を教えた、同じ現象の奔騰(ほんとう)は、同時に、もう一つの思想を齎(もたら)した。そして、それこそは、彼クロンショーが、あのペルシャ絨毯を贈ってくれた理由であるように思えた。ちょうど織匠(おりこ)が、あの精巧な模様を織り出して行く時の目的が、ただその審美感を満足させようというだけにあるとすれば、人間もまた一生を、それと同じように生きていいわけだし、また彼の行動一切が、なにか全く彼自身の選択以外のものであるとしか考えられないとすれば、やはり同じように、その人生をもって、単に一片の模様意匠と観ずることもできるはずだ。なにもある行為を、そうしなければならない必要もないかわりに、したからといって、別に益もない。ただ彼自身の喜びのために、なにかをしたというにすぎない。人間の一生のさまざまな事件、彼の行為、彼の感情、彼の思想、そうしたものから、あるいは整然とした意匠、あるいは精巧、複雑な意匠、あるいは美しい意匠を、それぞれ織り出すことが、できるというだけだ。そして、なにか人間に、選択力があるかの如く思うのは、結局単なる幻覚、つまり現象とか空想とが、たくみにない合わされた、途方もない手品にしかすぎないかもしれぬが、それもまたそれでよいのだ。そう見えるからには、彼にとっては、どこまでもそうなのだ。人生無意味、したがって何一つとして、言うに値するものはない、という考えを背景にして、さてこの人生という広大な経糸を考える時、いわばそれは、どことも知れぬ泉から流れ出し、いずくとも知れぬ海へと、絶え間なく注ぐ大河だ。
(下巻 pp. 483-484)
これが、絨毯の意味となる。人生にはどうにもならない不条理なことが多く発生する。そういうときに、このような考えはとても勇気付けられる。事実フィリップは以下のように見出している。
フィリップは思った、幸福への願いを捨てることによって、彼は、いわば最後の迷妄を脱ぎ捨てていたのだった。幸福という尺度で計られていた限り、彼の一生は、思ってもたまらないものだった。だが、今や人の一生は、もっとほかのものによって計られてもいい、ということがわかってからは、彼は、自然勇気の湧くのを覚えた。幸福とか、苦痛とか、そんなものは問題ではない。それらは、彼の一生における、いろいろほかの事柄と一緒に、ただ意匠を複雑、精妙にするだけに、入って来るものであり、彼自身は、一瞬間、彼の生活のあらゆる偶然の上に、はるかに高く立ったような気持ちがして、もはや今までのように、それらによって動かされることは、完全にあるまいと思えた。たとえどんなことが起ころうと、それは、ただの模様の複雑さを加える動機が一つ、新しく加わったということにすぎない、そして人生の終わりが近づいた時には、意匠の完成を喜ぶ気持、それがあるだけであろう。いわば一つの芸術品だ。そして、その存在を知っているのは、彼一人であり、たとえ彼の死とともに、一瞬にして、失われてしまうものであろうとも、その美しさには、毫(ごう)もかわりないはずだ。
 フィリップは幸福だった。
(下巻 pp.485)
美しい絨毯を織り込むように、自分の人生という芸術品を作り上げるのだ。そう考えると、人生の不条理さ、死別や病、周りの人との比較、差から感じ取ってしまう不幸は、芸術品を紡ぐ要素と考えられる。

人は誰でも、幸福を求めたがる。しかし、自分の理想と現実のギャップに思い悩んだり、人並みの幸福を得られない現状に、失望したり絶望したりして、自暴自棄になってしまったりする。そんなときに、他の人や世間一般の共通認識である幸福が重荷になって、『自分の人生とは一体なんだったのだろう・・・?』、『この苦しみは何の意味があるのだろう?』と考え出してしまう。

マスコミや周りの人が追い求める人並みの『幸福』を獲得することはできなくても、人生について別の評価指標を自分の中に抱いていければ、これほど勇気の湧くことはない。そして、それによって、はじめて本質的な『自由』を獲得することができるのかもしれない。幸福とか、生きがいとか、そういった人生の意味を追い求めることから。

人生に意味がないということを再確認できたとき、僕もまた失望感や絶望感に陥っているわけではない。本当に気が楽になって、自由になれたんだと思う。もう、自分の人生の意味を追い求めて自問自答することはほとんどやめることにした。

人間の絆』は、以下の本で知った。この本の引用箇所を読んだとき、少し半信半疑だった。しかし、今なら著者の意見に完全に同意できると思う。そして、著者によれば、『人間の絆』は、フィリップが社会に束縛され、隷属されている生き方から解放される過程を描いているものとある。なるほどと思った。

この作品を読んでいるとき、結末は不幸なものだと思っていた。フィリップが自殺したり、もしくはどうにもならない窮地で絶望に陥っているところで終わるのだと思っていた。しかし、実際は全然違った。ちゃんと結婚して、幸福を感じていた。しかし、そこに至るまでの過程がとても重要な気がした。

この物語で特に重要なのは、フィリップが人生の無意味さを見出す部分であることは言うまでもない。しかし、それとは別のところに、深く僕の内面に突き刺さってくる部分があった。以下に終わりから3ページの部分を抜粋。
考えてみると、半生、彼は、ただ他人の言葉、他人の書物によって吹き込まれた理想ばかりを、追い求めていて、ほんとうに彼自身の心の願いというものは、一度も持ったことがないようだった。いつも彼の人生は、ただすべき、すべきで、動いており、真に全心をもって、したいと思うことで、動いてはいなかったのだ。今や彼は、その迷妄を、一気にかなぐりすててしまった。いわば彼は、未来にばかり生きていて、かんじんの現在は、いつも、いつも、指の間から、こぼれ落ちていたのだった。彼の理想とは、なんだ?彼は、無数の無意味な人生の事実から、できるだけ複雑な、できるだけ美しい意匠を、織り上げようという彼の願いを、反省してみた。だが、考えてみると、世にも単純な模様、つまり人が、生れ、働き、結婚し、子供を持ち、そして死んで行くというのも、また同様に、もっとも完璧な図柄なのではるまいか?幸福に身を委ねるということは、たしかにある意味で、敗北の承認かもしれぬ。だが、それは、多くの勝利よりも、はるかによい敗北なのだ。
(下巻 pp.662)
今まで、ずっとブログに書評もどきの記事を書き続けてきたのは、この部分に出逢うためだったのかもしれない。それほど、この部分は強烈に、そして深く僕の内面に突き刺さった。僕もまた、現在を生きてこなかったような気がする。

いつもいつも、過去にとらわれて、そしてどこからか仕入れてきた未来を妄信し、現在進行形の今を生きておらず、むしろないがしろにしてきた部分が多かった。未来のために、それこそ美しい絨毯を織り込むために、今を犠牲にして捨ててきたものも多くあるような気がする。未来のため、未来のためと、本当に自分が何をしたいのかも分からず、無理をしてきた部分があるが、どこかそれでは違うのではないかと思っていた矢先にこの部分に出会った。

きっと生き方を変えなければいけないときなんだと思う。重要なのは、過ぎ去ってどうにも変えられない過去でもなく、どこかの誰かの入れ知恵的、妄信的な未来でもなく、二度とやってくることのない現在進行形の『』を大切にすることだと思った。

ということで、自分の野望とか理想を一度リセットして、もう一度考えなければならない。いや、そもそも理想なんかどうでもいいのかもしれない。今を楽しんで生きて、敗北を承認するのがいいのかもしれない。

1,300ページもあり、5月始めから読み始めたので、大体2ヶ月かかった。122章からなり、大体1章は30分ほどかかる。そうなると、大体読了まで60時間かかり、1日30分ペースで読めば、約2ヶ月で読了可能となる。速読が推奨されるような忙しい世の中を生きざるを得ない時代に、このような長大な作品を数ヶ月もかけて鑑賞しながら読むというのは、なかなか大変であると思う。しかし、人生の意義について考えてみたことがある人は、ぜひこの長大な作品を読んだほうがよい。きっと何かが変わる。変わらない人は、まだその時期ではないか、人並みの幸福に満たされている人だろう。

僕は、フィリップの中に自分と似たようなものを感じた。だから、長大な作品でも、飽きずにモームの示す世界観に没入できたのだと思う。もちろん、他の古典作品よりもはるかに分かりやすい文章であるというのも、読了しやすかった要因の一つである。

この作品は、きっと死ぬまでに何度か読み返すだろう。自分の人生に影響を与えた一冊は何か?と問われれば、その答えは、『罪と罰』でもなく『カラマーゾフの兄弟』でもなく、『魔の山』でもなく、『存在の耐えられない軽さ』でもなく、間違いなくこの『人間の絆』である、と答えるだろう。

500冊目は、この作品で間違いなかった。500冊目にこの作品を恣意的に選んだのも、きっと何か意味があるのだと思った。きっと、自分の人生が変わったんだよ。



人間の絆 上巻 (新潮文庫)
人間の絆 下巻 (新潮文庫)

読むべき人:
  • 自分の人生に納得できていない人
  • 人生の意味を考えてみたい人
  • 自分の人生を変えたい人
Amazon.co.jpで『サマセット・モーム』の他の作品を見る

bana1 人生を変える1冊クリック☆  にほんブログ村 本ブログへ


June 05, 2009

【雑感】散漫な羨望 〜1984〜

1984、という数字は、自分が生まれた年である。

そして、最近、村上春樹の新作、『1Q84』が発売された。巷ではいろいろと注目されており、書評も多く上がってきている。しかし、書評はまだ読みたくはない。内容を楽しみにしているからね。だから、自分がRSSリーダーに登録しているブログに新作について言及があるとき、その記事を惜しみながらスルーしている。

村上春樹の新作は、すぐに読みたいに決まっている。ただ、すぐには読み始められない。なぜならば、今500冊目の長編作品をちびちびと読み進めているからね。

ネット上の村上春樹の新作に対する言及を目の辺りにするたびに、羨望のまなざしを向けてしまう。自分自身もまた、ハルキスト(ハルキスト - Wikipedia)であるからだ。

そんな中、内田樹先生の以下の記事がとてもおもしろく、またいろいろと考えさせられた。

以下、特になるほどと思った部分を引用しておく。
物語の中に「自分自身の記憶」と同じ断片を発見したとき、私たちは自分がその物語に宿命的に結びつけられていると感じる。
けれども、それはほんとうは「自分自身の記憶」などではなく、事後的に、詐術的に作り出した「模造記憶」なのである。
「強い物語」は私たちの記憶を巧みに改変してしまう。
物語に出てくるのと「同じ体験」を私もしたことがあるという偽りの記憶を作り出す。
その力のことを「物語の力」と呼んでよいと私は思う。
それだけが私たちを私たち自身のままであることに釘付けにしようとするトラウマ的記憶から私たちを解き放つのである。
ノルウェイの森』を2度目に読了したとき、まさしく『「自分自身の記憶」と同じ断片を発見』した、と思った。『僕(ワタナベ君)』に似たものを感じて、自分のことが書いてあるような気がした。だから、この作品に宿命的に結び付けられていると感じて、自分の人生で何度も読み返す本と位置づけたのだと思った。しかし、『事後的に、詐術的に作り出した「模造記憶」である』、というのもなんとなく分かる気がする。最初に読了したときは、『僕』に共感を覚えなかったと思う。何年かたって(正確には6年)再読したときに、とても共感した。きっと6年の間に自分の中で「模造記憶」が作られたのだ、ということになる。

ここで少し話題を変えて、物語を読む意味について言及しておく。

内田先生によれば、「強い物語」はトラウマから私たちを解き放つ力があるということらしい。そして、それこそが人が物語を読む理由なんじゃないかなと思った。

つまり、自分自身を固定化しようとするトラウマから逃れるために、自分自身を別のかたちに「読み替え」て、精神の健全性を保つために物語を読むのだ、ということになる。

読む本、といったときに、ビジネス書、哲学書、エッセイ、自己啓発書、技術書と様々なジャンルがあるが、『物語』だけは娯楽作品のように扱われ、直接役に立たないものとして位置づけられがちである。巷に出版されている読書論は、主にビジネス書、実用書の読み方について言及されており、物語に関してはそっちのけである。そういうところになんとなく不満を覚えていた。

なぜなら、自分は強烈に物語りに惹きつけられていたから。

物語は直接目の前の問題、課題を解決してくれるわけではないけど、間接的にというか、もっと長期的な視点で見ると、かなり役に立つと思う。プラグマティックに役に立つというよりも、内田先生の言のように、トラウマ的記憶から私たちを解放する役割があるといったことや、生きていく上でのよりどころみたいなものとして、なくてはならないものなんじゃないかと思った。少なくとも自分自身に関してはそうだと断言できる。

内田先生のエントリから、自分自身が物語を読む理由をある程度導出できて良かった。

以下も参考程度に。

まぁ、全体的にかなり散漫な記事で。

それにしても、『1Q84』は早く読みたい。

1Q84 BOOK 11Q84 BOOK 1
著者:村上春樹
販売元:新潮社
発売日:2009-05-29
おすすめ度:4.0
クチコミを見る

1Q84 BOOK 21Q84 BOOK 2
著者:村上春樹
販売元:新潮社
発売日:2009-05-29
おすすめ度:4.5
クチコミを見る

その前に、ずっと前に買って積読状態のジョージ・オーウェルの作品のほうを先に読まなければいけない気がするんだよね・・・。

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)
著者:ジョージ・オーウェル
販売元:早川書房
発売日:1972-02
おすすめ度:4.5
クチコミを見る

結局このエントリの目的は、『1Q84』の書評に対する羨望を再認識し、その前に積読状態のオーウェルの『1984』を読まなければならず、そうなると新作はいつ読了できるのだろうねぇ、と途方に暮れることを確認したかっただけということになる。

他にも、500冊目の書評の前の記事がネタ的なセミナーレポートであることを回避するために、またこのエントリを境に500冊目まで一切更新がないかもしれないということを告知するためでもある。

500冊目も『物語』で、かなり『強い物語』である予感はしている。ただ、本当にいつ読み終えられるのかは自分でも分からない・・・。1日20ページくらい読めればよいほうなので・・・。

忘れた頃に更新されているかもしれないので、それまでこのブログの存在は忘れておいてください☆

bana1 散漫な羨望&忘却推奨クリック☆  にほんブログ村 本ブログへ