November 14, 2008

存在の耐えられない軽さ

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)
存在の耐えられない軽さ

キーワード:
 ミラン・クンデラ、恋愛小説、軽さ、思想、永劫回帰
ミラン・クンデラの思想書とも言えるような、文学作品。以下のような内容となっている。
本書はチェコ出身の現代ヨーロッパ最大の作家ミラン・クンデラが、パリ亡命時代に発表、たちまち全世界を興奮の渦に巻き込んだ、衝撃的傑作。「プラハの春」とその凋落の時代を背景に、ドン・ファンで優秀な外科医トマーシュと田舎娘テレザ、奔放な画家サビナが辿る、愛の悲劇―。たった一回限りの人生の、かぎりない軽さは、本当に耐えがたいのだろうか?甘美にして哀切。究極の恋愛小説。
(カバーの裏から抜粋)
この作品を読もうと思ったきっかけは、なんだったか忘れてしまった。確か、どこかのブログや某掲示板で一押しと薦められていたので、買って積読していたのだと思う。実際に読み始めたのは、今年の桜の咲く頃だったと思う。この作品は、最近読んだものでもピカイチで読み進めにくいものだった。途中で放置していたこともある。しかし、完全に投げることはできなかった。読み進めていくと、小説を媒介としたミラン・クンデラの主張のところどころに強く惹きつけられている自分がいた。

そうそう、この作品をプッシュしているブログを思い出した。Dain氏のわたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるでこの作品がスゴ本として取り上げられていた。多分それが印象に残っていて、実際に本屋で手にとってみて買ったのだと思う。詳細な解説はこちらがとても参考になる。そもそも、自分はこの作品を感覚的に理解できなかったのだから。

この作品は自分自身に人生経験のなさを突きつけてくるような気がした。お前は人生の何を知っているのか?と。

プレイボーイで200人以上も女性と関係を持った医者、トマーシュとウェイターをしていたテレザと運命的、かつ必然的な出逢いから物語は始まる。始まるといっても、何か起承転結の単純なものが展開されているわけではない。ミラン・クンデラの人生の軽さ、重さについての思想をトマーシュとテレザを筆頭とする登場人物に演じさせているもので、単純に小説とは言えない内容だった。ところどころの描写で、あまりにも抽象的過ぎて、置いていかれる。神の視点でミラン・クンデラが自己の主張を述べている部分もある。一文読むごとに、それはどういうことか?と考えざるを得なかった。だから、春先からここまでの時間を要したのだと思う。

読み進めるのが大変で、テレザのトマーシュとの不安な関係によって見る夢の描写などは頭の中で映像化するのが一苦労だった。思想、描写、思想、描写と繰り返されるので、頭を切り替えるのがさらに一苦労する。これほど読んでいて情景が想起されない作品も珍しいと思った。

最初に読み始めたときに、強烈に惹かれる部分があり、そこに思わず蛍光ペンで線を引いてしまった。文学作品に線など絶対に引かないのだが。まずは、その部分を抜粋。
 比べるものがないのであるから、どちらの判断がよいのかを証明するいかなる可能性も存在しない。人間というのもはあらゆることをいきなり、しかも準備なしに生きるのである。それはまるで俳優がなんらの稽古なしに出演するようなものである。しかし、もし人生への最初の稽古がすでに人生そのものであるなら、人生は何の価値があるのであろうか?そんなわけで人生は常にスケッチに似ている。しかしスケッチもまた正確なことばではない。なぜならばスケッチはいつも絵の準備のために線描きであるのに、われわれの人生であるスケッチは絵のない線描き、すなわち、無のためのスケッチであるからである。
 Einmal ist keinmal(一度は数のうちに入らない)と、トマーシュはドイツの諺をつぶやく。一度だけ起こることは、一度も起こらなかったようなものだ。人がただ一つの人生を生きうるとすれば、それはまったく生きなかったようなものなのである。
(pp.13)
しばらく放置しすぎて、再度冒頭から読み返したときは、最初のときほどの衝撃は薄れていた。しかし、『一度だけ起こることは、一度も起こらなかったようなものだ。人がただ一つの人生を生きうるとすれば、それはまったく生きなかったようなものなのである。』という部分は、とても考えさせられる。今自分が生きているということは、本質的には生きていないのと同じなのか?と。けれど、その再現性もなく、かつ代替性もないオリジナルな自分の人生だからこそ、かけがえのないもので、愛おしく思えるのだと思った。そして、まったく生きなかったようなものだったとしても、一度しかない人生なのだから、後悔せずに何かを決断して生きていくことが重要なのではないかと思った。

この作品で示されている、『重さ』、『軽さ』が何であったのかも、一読しただけでは分からなかった。もう一箇所その部分に関して思わず線を引いた部分を抜粋。
 人生のドラマというものはいつも重さというメタファーで表現できる。われわれはある人間が重荷を負わされたという。その人間はその重荷に耐えられるか、それとも耐えられずにその下敷きになるか、それと争い、敗(ま)けるか勝つかする。しかしいったい何がサビナに起こったのであろうか?何も。一人の男と別れたかったから捨てた。それでつけまわされた?復讐された?いや。彼女のドラマは重さのドラマではなく、軽さなのであった。サビナに落ちてきたのは重荷ではなく、存在の耐えられない軽さであった。
(pp.156)
『存在の耐えられない軽さ』とは、何だったのだろうか?自分にはまだ分からない。

もう一箇所思わず線を引いた部分がある。
愛はメタファーから始まる。別なことばでいえば、愛は女がわれわれの詩的記憶に自分の最初のことばを書き込む瞬間に始まるのである。
(pp.264)
これはどういうことか?と自問自答しながらこの文を10回ほど繰り返して読んでも、分からなかった。そもそも、自分の詩的記憶に最初のことばを書き込まれたことはあったのか?と振り返ってみる必要がありそうだ。

Nesnesitelná lehkost bytí and Martini.この作品の全体像は正直分からない。感覚的に理解できない部分が多すぎた。この作品は自分に人生経験がどれほどあるか?と突きつけてくる。24歳という若さでこの作品を読んでみたが、文章の意味はそれなりに理解できるが、この作品の本質である、人生の永劫回帰、軽さ、重さの納得感がまるで得られていない。これを本質的に理解できるようになるには、少なくともあと10年はいろいろなことを経験して成熟する必要があると思った。

10年後、35歳くらいになって再読したときに、重さ、軽さの本質が感覚的に分かるようになっていたいと思った。そして、きっとこの作品を再読する日がいつか来るのだと思う。その日まで、しばらくこの作品を寝かしておいて、一度しかない人生を必死で生きるべきなのだと思った。



存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)
存在の耐えられない軽さ

読むべき人:
  • ニーチェに傾倒したことがある人
  • 思想小説で思考訓練をしてみたい人
  • 一度しかない人生について考えてみたい人
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1. ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』(集英社)  [ 有沢翔治のlivedoorブログ ]   April 01, 2012 23:16

帯には恋愛小説とあるものの  いわゆるハーレークインロマンスみたいな恋愛小説ではありません。冒頭からしてニーチェとかパルメニデスとか出てきている時点でそれは解ると思いま ...

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