December 20, 2008

青春ピカソ

青春ピカソ (新潮文庫)
青春ピカソ (新潮文庫)

キーワード:
 岡本太郎、ピカソ、芸術論、挑戦、散文詩
岡本太郎によるピカソを媒介とした芸術論。以下のような目次となっている。
  1. ピカソ発見
  2. ピカソへの挑戦
  3. ピカソ芸術の本質
  4. ピカソの作品
  5. 青春ピカソ
  6. ピカソとの対話
(目次から抜粋)
良い本には2種類ある。役に立つ本と、面白い本だ。これは間違いなく後者に当てはまる。

著者である岡本太郎は、18歳のときにパリに留学に行く。そして、留学から2年してある画商で、百号大のピカソの作品に出逢う。そして岡本太郎は生涯でたったの2回だけ、絵画の前で泣いた。圧倒的な美しさを描いたセザンヌの絵と、ピカソの絵だった。その時の様子を以下のように語っている。
 画面一帯にのびのびと走る幾多の細い線、太い線、その線の一つ一つが鋭い感覚に微妙な味を交えて、極めて端的にぐいぐいと胸をついて来る。思わず両拳を力いっぱい握った。胸があつくふくらむのを覚えると、私の眼には涙がにじみ出て来た。
 これだ!全身が叫んだ。――撃って来るもの、それは画面の色や線の魅力ばかりではない。その奥からたくましい芸術家の精神がビリビリとこちらの全身に伝わって来る。グンと一本の棒を呑み込まされたように絵の前で私は身動き出来なかった。
(pp.12)
これがピカソとの最初の出逢いだったようだ。この涙に至るまで、2年半の迷いがあったようだ。そして、その2年半の迷いを経ることで、ピカソの絵の前で泣くほど感激したようだ。さらに、その涙の理由を以下のように分析している。
 もう一度言ってみたい。私の流した涙は鑑賞者としての感動ではなかった。創作者として、同じ時代の悩みを悩み、たくましく正面からぶつかって進んで行く先達者の姿に全身を以て感激し、涙が眼からふき出たのである。
(pp.15-16)
ピカソの絵を目の前にしたとき、自分は泣くことはなかった。ピカソと共有しているものが何もないからだろう。

岡本太郎は、同じ芸術家として、ピカソを崇拝しつつも徹底的に挑戦して独自の芸術論を示している。それが端的に現れている部分を、若干長いが抜粋。
 われわれにとってもっとも偉大であり、太陽のごとき存在であればこそ、かえって神棚からひきずり下ろし、堂々と挑まなければならないのだ。神様ピカソをただほめ讃えるのは容易であり、また安全だ。外国の権威を讃えてわがもの顔に解説し、専売特許のごとく振舞うことは、単に口に糊をする便ばかりでなく、権威になるもっとも安易な方法である。マチスが来たといっては派手に感激し、また臆面もなくピカソの作品の前で忠誠ぶりを発揮し、「とても及びもつきません。」と頭を下げ、まったく己の立場などないようにしてみせるのが、かえってもっとも効果的な方法だとさえ考えられているようだ。自身の力で己を権威とするのではなく、公認された権威をかつぎまわり、その威光をかさに着て権威づらをする、このうんざりする気分の上に日本現代文化ののっぴきらない変態性が表れている。
 私は繰り返して言う。ピカソが今日われわれをゆり動かすもっとも巨大な存在であり、その一挙一動が直ちに、歓喜・絶望・不安である。ならばこそ、あえて彼に挑み否定去らなければならないのだ。
(pp.20-21)
これはなるほどと思った。これは自分自身にも言える。つまり、何かの専門家として生きていこうと思う場合、さらにはこのような書評ブログを続けていく上で、この考え方はとても参考になる。自分もまた、挑戦者として挑み続けるべきだと思った。

もう一箇所、どうしても引用しておきたい部分がある。『鑑賞と創造』という節タイトルの部分。『真の鑑賞とは同時に創るということでななければならない。』という主張のくだり。
 創ることは決してキャンバスに向かって筆をとり、絵の具を塗ることだけではない。それはまったく形式的で素朴な考え方だ。己の世界観に新しいホリゾンを打ち開くことが実はクリエートなのである。真に芸術作品に対した場合、鑑賞者は己の精神の中に何らかのセンセーションによって、新たに何ものかが加えられる。というよりもむしろ己の自身に己が加えるのであるが。精神は創造的昂揚によって一種のメタモルフォーゼを敢行する。だから芸術作品と対決する以前と以後の鑑賞者の世界観、平たくいえば物の観方自体が質的に飛躍するのである。つまり創造であって、そのような創造の場なしには芸術、並びに芸術鑑賞は成り立ち得ないのである。だからこそ観るということは同時に創ることなのだ。対する作品がきわめて先鋭であり強力である場合、それは挑戦というもっとも緊張した立場をとって可能となる。そしてもし作者以上積極的に対決を挑むならば、鑑賞者は何らかの形において創作家をのり越えるのである。つまりピカソ芸術は讃仰するばかりでは鑑賞自体が成り立たないのだ。
 彼の狂暴なまでに闘争的な作品にぶつかり、反復するエネルギーに驚倒し、打ちのめされ、反発し、嗟嘆し、嫌悪、歓喜する。そして彼の芸術、その強烈なドラマをマスターしなければならないのだ。これこそピカソをのり超える可能性であり、また真のピカソ鑑賞法なのである。その精神は創作者の立場とまったく同質である。以上の意味から読者は鑑賞者、創作者の区別を徹して、このピカソ論を読んでいただきたいと思う。
(pp.28-29)
この部分を読めるだけで、この本は買う価値がある。青の時代、バラ色の時代などの作品は、まだ分かりやすい。しかし、キュビスム作品やオルガとの結婚生活が破綻しているときの作品は、まったく理解できない。そういうときに、この鑑賞方法がきっと役に立つだろう。

最近、六本木にある国立新美術館、ミッドタウン内のサントリー美術館で開かれていたピカソ展に行ってきた。そしてピカソの絵と対自してきたが、まったく挑戦できていなかった。漠然とすごいものだという認識でしかなかった。また、模写であれば、自分でも描けるのではないかと思った。しかし、岡本太郎の言う、『ピカソの強烈なドラマをマスターするべき』、という部分は、なんとなくできはじめていたような気がする。

ピカソの絵は生涯で4,5万点もあるようだ。そのほんの一部を美術館で見てきたが、そのときに自分は、なるべくどういう意図でこのような絵を描こうと思ったのかを理解しようと努めて鑑賞してきた。そして、なぜ生涯にわたってこのような多数の作品を描くことになったのか?と考えたりもした。そして、この本を読んでいると、以下のようなピカソの発言が載っていた。
 皆が絵画を理解したがる。そのくせ、鳥の唄を理解したがりはしないのだ。人は夜とか、花とか、あたりにあるものを理解しようともしないで愛するではないか?ところが絵画については理解したいと欲する。芸術家は描かずにいられないから描くのであって、人々が説明なくして魅惑される他のいろいろなものなどより決して重要視される必要のない、ささやかな自然の要素である、という風に考えるべきだ。
(pp.44)
つまり、ピカソにとって絵を描くことは、自然なことで、特に目的や目標があって描くわけではないということだろう。そして、それは自分のこの書評ブログにも通じるものだと思った。本質的には、自分は何か目的があって読んでいるのではない。自分にとって、本を読むことが自然なことであり、そしてそこから感じたこと、思ったことを書かずにはいられないからこのように書いている。だから、3年近くも辞めたいとも思わずに書き続けてこられたのだと思う。

表紙の写真は岡本太郎とピカソの様子を写している。実際に岡本太郎がピカソのアトリエに行って、話を聞いたりした体験記的なものも示されている。同じ芸術家としてピカソと対面して書かれているピカソ論は、とても学ぶことが多い。ただ、岡本太郎にあえて挑むなら時代背景や、岡本太郎の留学時代の専攻が哲学、社会学、民俗学を学んでいたことから、やたらとペダンチックな印象を受ける。まぁ、そこがこの本の面白さでもあるが。

この本が400円前後の値段で手に入るのはすばらしい。本屋でふらふらと歩き回っていて見つけた本だが、掘り出し物だった。昭和28年に出版された本らしい。

他にも、岡本太郎、ピカソについて知りたい人は以下がお薦め。芸術と青春』は岡本太郎自身のエッセイで、『君はピカソを知っているか』は高校生でも読めるような、ピカソ全般について分かりやすくまとめられた本。

これで芸術鑑賞レベルがワンランク上がった気がする。そして、もっと挑戦し続けなければ。



青春ピカソ (新潮文庫)
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読むべき人:
  • 岡本太郎、ピカソに関心がある人
  • 趣味が芸術鑑賞、美術館めぐりの人
  • 何かに挑戦し続けている人
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