March 20, 2009

移りゆく「教養」

移りゆく「教養」 (日本の“現代”)
移りゆく「教養」 (日本の“現代”)

キーワード:
 苅部直、教養、思想史、カルチャー、対話
日本政治思想史が専門の著者によって、政治を起点として教養が論じられている本。この本で492冊目。以下のような目次となっている。
  1. 序章 なぜ「教養」を問題にするのか
  2. 第1章 「教養」の現況をめぐって
  3. 第2章 近代日本の「教養」
  4. 第3章 「教養」の内と外
  5. 第4章 「政治的教養」と日本の伝統
  6. 第5章 「教養」と教育、「教養」の教育
  7. 終章 「教養」のむこうがわ
(目次から抜粋)
昔から『教養』というものを考えるときに、教養とは『いかに生きるか』という問いを考えることであると論じられてきた。日本においては、かつて大正・昭和の知識人、そして昨今の大学教育においても教育者から、教養が崩壊したと嘆く声が多くあげられ、「教養」の再生が求められている。しかし、それらの論点では、どこか説教くささがつきまとう。そのため、教養の英訳である「カルチャー」という言葉を『人と人がさまざまな活動をおたがいに行う上で、前提にしている共通のものの考えかた』と捉えて説教くささを薄め、そしてそのような行為を『政治的判断力』と捉えながら、「政治的判断力」と「教養」と日本の伝統文化、その三者の関係はこれまでどう論じられてきたのか。そして今後のあり方を考える手がかりは、どこに見出されるのか?といったことが議論されている。

もう少し内容について要約された部分が5章の始めに示されているので、その部分を抜粋。
 さて、この本をここまで読み進めされた方のうちには、いいかげんにしびれが切れた、とお思いの向きもきっとあるだろう。いまの日本に生きるわれわれは、いかなる「教養」を身につけるべきか、そのための教育制度はどういうものが望ましいのか。「日本の<現代>」の一冊で「教養」を論じるのだから、そういう答えを期待していたのに、「教養」の概念史のような話がえんえんと続き、はては、古臭い伝統の話である。これではまるで、詐欺ではないか。
 一見、まわり道のような構成をとっているのは、それなりにねらいがあってのことである。「教養」とは何か、その定義じたいが、思想史の経緯から言えば、さまざまだということ。その中で、近代日本で考えられてきた「教養」は、独特の意味をもっていること。近代の日本で「教養」の本場とされてきた、西洋文化の輸入だけではなく、みずからの足元の伝統にも、「政治的教養」の源泉はありうること。そういったさまざまな側面にふれることで、「教養」をめぐる思いこみを解きほぐすことができるのではないだろうか。
(pp.149-150)
自分も5章に入るまでは、大正・昭和の大学教育における教養の状態や西洋哲学の教養論などが引き合いに出され、なかなか自分の知りたい、いかなる「教養」を身に付けるべきか?が出てこなかったので、読み進めるのを止めようかとも思っていた。実際4章までは、教養史としては参考になるが、そこまで自分がなるほど!!と思って線を引く部分もほとんどなかった。しかし、5章以降からがこの本の核になってくる。

まずは、教養とは何か?という部分を引用しておく。
現代において、はてしなく専門化し、断片と化した学問の知識を前にして、人々はあたかも密林にふみこんだかのように、途方にくれる。このとき、さまざまな諸領域をつなぐ回路を、自分なりに見つけだし、展望をえることで、世界との間に調和をとりもどし、人間らしく生きることができる。そうした知の営みを培うものが「教養」なのである。
(pp.178-179)
これは、茂木健一郎氏も『クオリア立国論』で同じようなことを示している。専門領域を深化させることはもちろん重要だが、それだけでは足りない、という自分の考えと同じだと思った。そして、なぜ教養が必要であるかが以下のように示されている。
 だが、一九七〇年代以降、大学への進学率があがり、ことさらに「教養」のある存在として、大学生である自分を、大衆から区別することが不要で不可能になってくると、「教養」のかけ声は、もはや説得力を失ってしまった。むしろ、「教養」をふりかざす者については、「教養」なき者に対する蔑視が、敏感にかぎとられ、敬遠されるようにもなる。
 「教養」を積めばいったいどうなるというのか。もちろん、「教養」を積んでゆく過程それ自体が目的だと答える手もあるだろう。だが、間に合わせの答えすらまっとうに語らず、答えることを放棄したまま「教養」の必要を説く大人や先輩が、どうもうさん臭い。大学生の「教養」ばなれには、そうした要因もあったのではないか。
 しかし、その現状にため息をつきながら、もはや「教養」などと放り出すわけにはいかない。人間が身につける知が、読み書き・計算をざっと身につけただけで、あとはマニュアル化された実用知識か、あるいは高度に専門化した学問だけになってしまえば、どうなるか。学問でもジャーナリズムでも、専門の境界を越えるような、豊かで斬新な発想は、まず生まれなくなる。さらに、異なる価値観や世界観を抱いた人間どうしの対話が、日常生活の次元でも、ずっと困難になってゆくだろう。人と人とが生き生きとした交流を保ち、社会を円滑に動かしてゆくためには、この本で色々ととりあげてきたような「教養」が、やはり必要なのである。
(pp.195-196)
教養が必要な理由は、斬新な発想を生み出すことと他者との対話のためである、と言うことに尽きる。

そして、教養の『要点』が書物との対話にあると示されている。それは、コンピュータの画面に映るような文字の連なり、つまりブログなどでの論説も含まれるが、書物を読むことが重要であると示されている。時代が変わっても本の読解が大きな役割を果たすのは、変わらず、読書はやはり「教養」への踏み台となり、生涯つづく「教養」の営みと伴走しながら、続けるのにふわさしい営みであると示されている。

突き抜けて成功している人、革新的な発明やビジネスでの業績を上げている人ほど、教養に溢れているのではないか?というのが自分の仮説。その人たちは、専門分野を持ちつつも、確実にそれ以外の分野への興味関心を幅広く持ちながら、実に多様な本を読まれていると思う。例えば、昨今ではブログ界、出版界をにぎわせている、小飼弾氏や勝間和代氏などがそれに該当するのではないかなと思う。そして彼らほど、『人と人とが生き生きとした交流を保ち、社会を円滑に動かしてゆくため』の対話の重要性を認識しているのではないかと思う。

突き抜けて成功していたり、業績をあげている人、大企業の経営者クラスの人ほど専門分野以外の本を多く読んでいるのはなぜか?と疑問に思っていたが、なんとなくその答えが、この本に示されている教養の重要性にたどり着くのではないかと思った。

そして、最終的には、この本では、教養を身に付けるために読むべき本が示されているわけではなく、これを読むことが教養になるなどと考えずに、古典的なテクスト、それ以外にも音楽や映画や漫画にも接していけばよいとあった。実に説教くさくなく、肩の力が抜けている。

これからは、教養を身に付けるためというよりも、斬新や発想、他者との対話のためという視点で肩肘を張らずに色々な本を読んでいけばいいのだと思った。ただ、自分の専門分野の本もそれなりに読まなければならず、いつも専門分野とそれ以外の分野のバランスをとるのに途方に暮れるが・・・。

教養について考えてみたい人は読んだほうがいい。教養に関する書籍の参考文献もかなり多く示されているので、よいと思う。



移りゆく「教養」 (日本の“現代”)
移りゆく「教養」 (日本の“現代”)

読むべき人:
  • 教養とは何かを考えたい人
  • 思想史が好きな人
  • 斬新な発想で突き抜けていきたい人
Amazon.co.jpで『教養』の関連書籍を見る

bana1 役に立ったらクリック☆  にほんブログ村 本ブログへ



トラックバックURL

コメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価:  顔   星