May 02, 2011

走ることについて語るときに僕の語ること

走ることについて語るときに僕の語ること
走ることについて語るときに僕の語ること

キーワード:
 村上春樹、市民ランナー、マラソン、小説論、メモワール
小説家でフルマラソンを走る村上春樹氏の走ることについての考えが示されている本。以下のような目次となっている。
  1. 前書き 選択事項としての苦しみ
  2. 第1章 誰にミック・ジャガーを笑うことができるだろう?
  3. 第2章 人はどのようにして走る小説家になるのか
  4. 第3章 真夏のアテネで最初の42キロを走る
  5. 第4章 僕は小説を書く方法の多くを、道路を毎朝走ることから学んできた
  6. 第5章 もしそのころの僕が、長いポニーテールを持っていたとしても
  7. 第6章 もう誰もテーブルを叩かず、誰もコップを投げなかった
  8. 第7章 ニューヨークの秋
  9. 第8章 死ぬまで18歳
  10. 第9章 少なくとも最後まで歩かなかった
  11. 後書き 世界中の路上で
(目次から抜粋)
タイトルとこの目次だけでもう読みたさをそそられるでしょう。村上春樹氏の作品を好んで読んできた読者にとってはね。

本書はフルマラソンやトライアスロンを20年以上挑戦し続けてきた、小説家とは別の市民ランナーとしての顔を持つ著者が、走ることについて自分語りをしている本となる。著者自身はこの本を回顧録的なもの、つまり「メモワール」として位置づけているようだ。

走ることについて、そして小説家としての仕事観について他の著者の本ではあまり示されていないことまで示されている。走ることと小説を書くことの共通点や小説家の才能について、フルマラソン中に一体何を考えているのか?といったことまで。

たくさん線を引いた。そのどれもがとても共感できるものだったし、小説家が小説を生み出すプロセスなどもとても勉強になった。自分の言葉でそれらをまとめるのは、自分の部屋を綺麗に整理整頓するのと同じくらいとても難しい。読んでいるときは、引用をなるべくしないように本書についての記事を書こうと思っていたのだけど、引用は自分の心情を代弁してくれるとても便利な方法なので、あますことなく使うことにする。プログラミングで優れたライブラリ関数群をヘッダーでinclude設定するように。

本書について、走ること、小説について端的に集約されている部分が以下となる。
 僕自身について語るなら、僕は小説を書くことについての多くを、道路を毎朝走ることから学んできた。自然に、フィジカルに、そして実務的に。どの程度、どこまで自分を厳しく追い込んでいけばいいのか?どれくらいの休養が正当であって、どこからが休みすぎになるのか?どこまでが妥当な一貫性であって、どこからが偏狭さになるのか?どれくらい外部の風景を意識しなくてはならず、どれくらい内部に深く集中すればいいのか?どれくらい自分の能力を確信し、どれくらい自分を疑えばいいのか?もし僕が小説家となったとき、思い立って長距離を走り始めなかったとしたら、僕の書いている作品は、今あるものとは少なからず違ったものになっていたのではないかという気がする。具体的にどんな風に違っていたか?そこまではわからない。でも何かが大きく異なっていたはずだ。
(pp.114)
それほど著者にとっては、走ることは大きなものだったようだ。著者曰く、誰かにランナーになってくれと言われて走り始めたわけではないようだ。そして小説家になることも、同様に薦められてなったわけではない。著者のファンであればきっと共通認識として持っていると思われる小説家になろうと思ったときのエピソード、1978年4月1日の神宮球場の外野席での状況も示されている。

走っているときの心情は、結構ネガティブなものなのだなと思った。雑誌の企画でアテネからマラトンまで42キロを初めて走ったことが示されている。そこでは37キロあたりで何もかもが嫌になってきたとか、どうして危険きわまりない産業道路をわざわざ走らなくてはならないのだとか終始怒りに覆われている。ゴールしても達成感はどこにもなく、「もうこれ以上走らなくてもいいんだ」という安堵感だけがあるようだ。そんなものかね。

著者の小説論についてもたくさん示しておきたいが、それはなんだか秘伝みたいなものなので、買って読んでほしいと思う。代わりにとても共感できた部分を引用しておきたい。小説家となったあと、経営していたジャズバーを譲渡し、5時前起床、夜の10時前就寝という規則正しい生活で執筆活動に専念しようとして、人付き合いが悪くなっていった状況についての部分。
 ただ僕は思うのだが、本当に若い時期を別にすれば、人生にはどうしても優先順位というものが必要になってくる。時間とエネルギーをどのように振り分けていくかという順番作りだ。ある年齢までに、そのようなシステムを自分の中にきっちりこしらえておかないと、人生は焦点を欠いた、めりはりのないものになってしまう。まわりの人々との具体的な交遊よりは、小説の執筆に専念できる落ち着いた生活の確立を優先したかった。
(pp.58)
これはとても共感できた。最近の自分のキーワードは選択と集中なので、著者の示していることも何となく予感している。つまり、ある程度絞って何かを深めなければ、結局何者にもなれないのではないかという危惧がある。自分自身のアイデンティティーの喪失を内包したまま、30歳を迎えるのが怖い。だから著者の示すある年齢までに、というのが30歳なのだと思う。なので、今いろいろと必死。

また、著者の走ることそのものの根本原理について示されている部分を以下に抜粋。
 同じ十年でも、ぼんやりと生きる十年よりは、しっかりと目的を持って、生き生きと生きる十年の方が当然のことながら遥かに好ましいし、走ることは確実にそれを助けてくれると僕は考えている。与えられた個々人の限界の中で、少しでも有効に自分を燃焼させていくこと、それがランニングというものの本質だし、それはまた生きることの(そして僕にとってはまた書くことの)メタファーであるのだ。このような意見には、おそらく多くのランナーが賛同してくれるはずだ。
(pp.115)
これはもう賛同以外にない。僕も目的志向型だし、100年ぼーっと何もなすことができずに何となく生きるよりは、やりたいことをやり、達成感のある50年を生きたいと思う。僕は目標がないと何かに没頭して取り組んだり、生き生きと感じられないし、しかもずっと走り続けなくてはならないタイプなのだ。マグロなど泳ぎ続けないとエラ呼吸ができず、死んでしまう魚類のように。

話はそれるが、僕は確実に持久力を必要とされる長距離ランナータイプだ。中学、高校時代は、瞬発力を必要とされる短距離走は得意ではなく、1500m走で持久力を発揮できていたように思う。実際、中学3年生のときはサッカー部とは別に駅伝の選手だった。だから著者の走っているときの心情、ふくらはぎなど脚の描写はとてもよくわかった(そうはいっても、今まで最高で6kmくらいまでしか連続で走ったことはないけど)。

今年の初めにランニングシューズを買って、徐々にジョギングをしようと思っていた。近所の1周700メートルある公園を走ろうと思って、週1くらいで走ったりもしていた。けれど、気付いたらサボリがちになって、最近は全然走っていない状況となる。しかし、本書を読んでいると、ランニングなどの疾走感、ランナーズハイみたいな状況を一度でも経験したことのある人にとっては、内容にとても共感できると思う。読了後すぐに走りに行きたくなるようになる。

久しぶりに上質な読書ができたと思う。ずっとTOEIC900点突破トレーニングのために疾走してきて、読書そのものを封印していたので、よい本を読みたいと思っていた。そして、このような本を読むことこそ、自分が求めていた読書なのだと再認識した。

また、過去にこのブログで取り上げた村上春樹氏の本は以下から参照可能。僕はこの前、読書ブログで第3部に突入したことを示した。病弱なのでフルマラソンを走るような勤勉な市民ランナーにはなれそうにはないけど、自分の人生のというマラソンは歩くことなくずっと走り続けたいと思う。



走ることについて語るときに僕の語ること
走ることについて語るときに僕の語ること
著者:村上 春樹
販売元:文藝春秋
(2007-10-12)
販売元:Amazon.co.jp

読むべき人:
  • 市民ランナーで日常的に走っている人
  • 村上春樹作品が好きな人
  • メタファーとしてずっと走り続けたい人
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