May 24, 2014

アメリカの鱒釣り

キーワード:
 リチャード ブローティガン、鱒、クリーク、アメリカ、幻想
リチャード・ブローティガンの小説。以下のようなあらすじとなっている。
二つの墓地のあいだを墓場クリークが流れていた。いい鱒がたくさんいて、夏の日の葬送行列のようにゆるやかに流れていた。――涼やかで苦みのある笑いと、 神話めいた深い静けさ。街に、自然に、そして歴史のただなかに、失われた〈アメリカの鱒釣り〉の姿を探す47の物語。大仰さを一切遠ざけた軽やかなことば で、まったく新しいアメリカ文学を打ちたてたブローティガンの最高傑作。
(カバーの裏から抜粋)
この小説は、例によって西新宿のブックファーストのフェアで見つけた。確か次に読みたい1冊というような題目で置かれており、リチャード・ブローティガンという名前が気になって買った。以前、『愛のゆくえ』を読んでなかなか面白いと思い、自分に合っているような気がしたからだ。本作品、〈アメリカの鱒釣り〉についてあらすじとか、テーマ性とか、登場人物が何をどうしたといったことを語るのは容易ではない。そもそも、これは小説と言っていいのかさえ、判断に困るような作品であるからだ。形式上47のタイトルが付いた章ごとに分けられている。しかし、一貫性もストーリーのようなものもないように思われる。それはドリアの表面が分厚いチーズで覆われているようなものだ。

なんとなく重厚な作品を読むのに疲れていたというのもあって、本書を読むことにした。数ページ読んだ時点で、変な本だなと思った。しかし、20ページほど読み進めたあたりで、この本が感覚的に自分に合っている、好きだなという判断を早計にも下すことになった。若干品のない部分ではあるが、その部分を引用しておく。鱒釣りに出かけようとヒッチハイクの車を待っているところ。
 掘立小屋からちょっとのぼったところに屋外便所があった。扉がもぎとられそうな格好で開いていた。便所の内部が人間の顔のように露わになっていた。便所はこういっているようだった――「おれを建ててくれたやつはここで九千七百四十五回糞をしたが、もう死んでしまった。おれとしては、いまはもうだれにも使ってほしくないよ。いいやつだったぜ。ずいぶんと気を使って、おれを建ててくれたんだ。おれはいまは亡きおケツの記念碑さ。この便所には匿さなくちゃならんような秘密などないよ。だからこそ扉があいてるんじゃないか。糞をしたけりゃ、鹿みたいに、そこいらの茂みでやってくれよな」
「くたばりやがれ」と、わたしは便所にいってやった。
(pp.22)
我ながらずいぶんと品がないところに惹かれてしまったなと思った。
 便器は重ねられて、棚の上にあった。五基ずつ重ねて置いてあった。便器の上は天窓で、便器はそこからの光を受けて、『南海の禁断の真珠』とかいう映画にでも出てきそうな様子で輝いていた。
(pp.204)
というような、もう少し上品な部分に惹かれて好きだと確信できればよかったのだけど、いささかこの部分が出てくるのが遅すぎたのだ。

半分くらいは釣りをしていないような内容なのだが、〈アメリカの鱒釣り〉のタイトルのように、ちゃんと鱒を釣っている内容のものもある。『アロンゾ・ヘイゲンの鱒釣り日誌』という内容では、7年の間に22回鱒釣りに出かけているが、釣り旅1回につき釣りそこねた鱒平均数が10.8とあり、結局1度も釣れず〈アメリカの鱒釣り墓標銘〉として次のように書き記されている。『もうたくさんだ。釣りをはじめて はや七年 一度も鱒を釣りあげていない。 針にかかった鱒は残らず釣りそこねた。』とある。この『』の部分を変数として他の値を思い思いに代入したところを想像してみてほしい。ずいぶん悲惨な内容だと思わないかい!?と妙に共感を覚えるのであった。実に〈アメリカの鱒釣り〉的な内容である。

さて、内容とは関係ない、どうでもいい逸話ではあるのだが、本書をショルダーバックの中に入れて電車中で読んでいたりした。あるとき、一緒にバックに入れていたペットボトルの蓋がしっかりとしまっていなかったので、〈アメリカの鱒釣り〉は濡れてふやけてしまった。しかし、そのふやけ具合が、まさに水を得た魚のような感じだなと妙に納得していた。濡らしたものがコーラなど色付き飲料ではなく、フランス産のミネラルウォーター、『ボルヴィック』であったのが幸いでもあるが、〈アメリカの鱒釣り〉だったら『クリスタルガイザーなら完璧だったな』と言いそうだなと想像してみた。

〈アメリカの鱒釣り〉はきっと象徴でもあるのだけど、それをうまく説明するのは難しいし、それは文芸評論家とかアメリカ文学研究者の仕事であるから、何も僕がここでやることではない。そうそう、それでも、以下の部分がとても参考になるよ。
 ここで、わたしの人間的欲求を表現すれば、――わたしは、ずっと、マヨネーズという言葉でおわる本を書きたいと思っていた。
(pp.215)
まぁ、そういうことだ。

その他の重厚な文学っぽい作品が絵画でいうルノワールとかセザンヌ、モネなどの印象派みたいなものであれば、〈アメリカの鱒釣り〉は、マグリットやダリなどのシュルレアリスム絵画のようで、感覚的に見て楽しむような作品なんだ。考えずに感じて、独特の表現を楽しむというような作品だ。

そうそう、これだけは断言できることであるが、翻訳がまれにみるほど秀逸であり、それは数十ページ読めばおのずと分かる。解説の柴田元幸氏によれば、藤本和子の翻訳は、『翻訳史上の革命的事件』であり、この翻訳がなければ、村上春樹の翻訳、さらには作家村上春樹の作品でさえ考えられないとまで言わしめている。それほどの作品だ。

〈アメリカの鱒釣り〉というのは、ふと渋谷の交差点あたりでどこかで見たことがある人とすれ違い、あれはテレビに出ている人ではなかったか?と余韻と静かな反芻を起こさせるような、しかし確信をいまいち持てないでいる類のスゴ本なのだ。

世界中で200万部のベストセラーになったくらいだし、うっかり20冊くらいアマゾったところで何の支障もないだろう。そう、〈アメリカの鱒釣り〉ならね。



アメリカの鱒釣り (新潮文庫)
リチャード ブローティガン
新潮社
2005-07-28

読むべき人:
  • 鱒釣りが好きな人
  • 村上春樹作品が好きな人
  • 〈アメリカの鱒釣り〉を感じたい人
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